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村上春樹の読み方

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2011/05/15
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再び脇田です。

連休中に私が読んだもう一つの本があります。村上春樹の「世の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」です。村上さんの作品を1冊でも読んだことのある方ならばよく分かる通り、村上ワールドはユング的な原型ワールドでもあります。村上さん自身も河合隼雄さんとの対談をしているくらいで、彼ほどユングに近い世界を描く作家はいません。

「世の終わり」はさまざまな読み方が可能です。もっとも一般的な読み方としては、「<自分>という人間の存在学的な責任をいかに引き受けるか」という実存的な読み方でしょう。阿部公房的な、あるいは大江健三郎的な実存小説の流れを、確かに村上春樹は受け継いでいます。

もう一つは、心理学を学んでいる私たちならではの読み方で、それは村上ワールドにどのように元型が布置されているかを探っていくような読み方です。

村上作品には、セックスに関する記述が頻出します。もちろんこの記述を、村上さんのエディプスコンプレックスの表出として読んでいくことも可能でしょう。しかしここでは少し、ユング的な読み方をしてみたいと思います。

村上作品は常に「僕」とか「私」といった一人称で書かれますので、その「僕」にとってのアニマに注目すると、どの作品にもアニマが描かれていることが分かります。例えば、「ノルウェーの森」では、キーになる女性として「直子」と「緑」が登場しますが、原型の補償性という点で考えると、当然アニマは「緑」の方です。「直子」は単に、「僕」の自我の一部にすぎなく、つまりフロイト的な依存・愛着の対象、つまりエゴの一部に過ぎません。

同様に、「世の終わり」では、「ピンク色の太った少女」がアニマです。図書館の女性はエゴの一部です。「僕」は作品の最後で、「緑」にも、そして「ピンクの少女」にも電話をかけます。彼女たちは「僕」を現実世界に戻す補償機能を備えた存在だからです。だから、これらのアニマとは、「僕」はセックスをしません。(「緑」とはセックスをしますが、その様子は「直子」ほど幻想的・官能的には描かれていません。もちろん、17歳の「ピンクの少女」とは、彼女がどんなに誘ってきても、「僕」は勃起はしてもセックスはしません)。

このように、アニマを登場させないことには、村上ワールドは完結しないのです。もし彼女たちが登場しないとどうなるか。簡単です。村上作品は、単なる恋愛小説に終わってしまうでしょう。

「世の終わり」には文字通りの「影」も登場します。この「影」はもちろん元型の「影」であるわけですが、村上ワールドは常にこの「影」とのスタンスの取り方を巡ってストーリーが展開します。初期作品では、「鼠」や「羊男」が「影」です。そして、「アンダーグラウンド」では、他ならぬオウムが「影」でしょう。それはもちろん、ユングの時代におけるナチスがそうであったのと同様です。「影」はいつも、村上ワールドの中で、殺されたり、自殺したり、自ら滅びたりします。「世の終わり」では、「影」は南のタマリに身を投じて消滅してしまいます。「ネジマキ鳥クロニクル」の「ワタヤノボル」が脳梗塞で倒れるのは、「僕」が超能力でバットを振るうからではありません。「ワタヤノボル」は「僕」の影であるから、あらかじめ死が刻印されているわけです。

しかし、最近の作品で「影」は新たな展開を迎えます。「影」に代わって、童子を連れた「老賢者」が登場する小説。それがいよいよ、「1Q84」です。ああ...でも「1Q84」は、私はまだ読んでないんですよ~。

というわけで、今回は「村上春樹ワールドの読み方<その1>」でした。

 

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