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眠れる森の美女

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2012/04/28
らくらくカウンセリングオフィスは、ワーク(働く)ということの意味を、クライエント共に考えていきます。


いわゆる「眠り姫伝説」という昔話があります。その代表的なストーリーが、「眠れる森の美女」です。魔女の呪いで永遠の眠りに落ちてしまった王女を王子様が救い出すというストーリーで、もちろんその原作はグリムやぺローの童話であり、広くヨーロッパに広まっていた伝説です。ユング的な物語分析が可能なほど謎に満ちたストーリーですが、この物語をモチーフに使った作品が、村上春樹の「めくらやなぎと、眠る女」です。

いわゆる“差別用語”をタイトルに意図的に使うことにより、村上春樹はこの作品に、ムラカミワールドならではの「多層的メタファー」を構成しています。しかもこの作品が、「ノルウェーの森」の姉妹版であること、手直しをして阪神大震災後に帰国して朗読会で披露された作品であること、それにより第2期から第3期への変貌をよくあらわしていること……などの理由から、村上文学の中でも重要な作品として位置付けられています。

短編ですので、ストーリーは簡単です。恋人との別れを機に会社を辞めた主人公「僕」が故郷の神戸へ帰ってくる。実家の近くに住んでいる年下のいとこと再開し、その母親(つまり「僕」の叔母)に託されて、いとこを大学病院へ連れて行く。いとこは事故で片方の耳が聞こえない。しかも最近では、聞こえる方の耳も時々難聴になり、症状が悪化している。しかし主治医は、「聞こえる方の耳には医学的異常はない。聞こえないのは、精神的問題ではないか」と示唆をする。大学病院で診てもらうが、案の定、検査をしても難聴の原因はさっぱり分からない。一方、病院に付き添った「僕」は、そこで既視感に襲われ、高校時代の友人と彼が付き合っていたガールフレンドのことを思い出す。病院に入院していたそのガールフレンドが書いていた「めくらやなぎと、眠る女」という詩があり、それが「眠り姫」に似たストーリーである。その詩では、めくらやなぎの花粉を運ぶハエの仕業で眠りについてしまった女を恋人が助けに行く。そのガールフレンドが、彼氏と「僕」に聞く。「恋人が助けに行った時、女の人はどうなっていたと思う?」。彼氏は答える、「ハエに食われていたんだろ。哀しい話さ」。「ある意味ではね」と、彼女は答える。「あなたはどう思う?」と、彼女は次に「僕」に聞く。「哀しい話みたいに聞こえる」と、僕は答える。

この小説は、実は「ノルウェーの森」と対になっていて、「ノルウェー」を読んでいないと何がなんだかよく分からない部分があります。ただし、この作品で重要なのは、彼女がなぜ「僕」に、「あなたはどう思う?」と聞いている点です。つまり、先に答えた彼氏の答え、「ハエに食われていたんだろ」を彼女は部分的には肯定したものの、その答えに満足はしていなかったということです。また、「ノルウェー」を読むと、このガールフレンドは後に精神を病んで自殺してしまう「直子」であったということが分かるのですが、とすると「めくらやなぎ」の詩は直子にとってある重要な意味をもっていた考えられます。つまりこの詩は、直子にとって最も大切な「原幻想的ファンタジー」であったのではないかと思われます。

直子の書いた「めくらやなぎ」の結末は、果たして「眠れる森の美女」のようなハッピーエンドだったのでしょうか。それとも彼氏(「ノルウェー」の登場人物名で言うと「キヅキ」)の言うような「ハエに食われてしまう」という“哀しい話”だったのでしょうか。

小説「めくらやなぎと、眠る女」はリメイク作品です。最初はおそらく、「ノルウェー」の最終部分の習作として書かれたのでしょうが、リメイク時には新た作品としての息吹を与えられています。特に、「僕」の「いとこ」の描き方が大きく変わっています。最初の作品ではいとこは、「僕」を現実世界に引き戻す役割、つまり「ノルウェー」のみどりの役割を担っているのですが、リメイク版では、この役割よりもむしろ、いとこ本人の精神面がクローズアップされています。加藤典洋さんは、この「いとこ」のクローズアップに、村上春樹の第2期から第3期への変化があると言っています。心理学的に見ても、「いとこ」と「僕」の関係は「耳」との連想をもとに、直子と僕とをつなげるタイムトンネルになっています。なぜいとこは病気ではない耳まで聞こえなくなるのか、いとこが語る「アパッチの話」は何を比喩しているのか、何が「僕」の既視感と連想を導いたのか。これらの問いの中心に、直子の「ファンタジー」が位置付けられているのです。

対象関係論的に考えると、直子の対象関係は、極めてアンビバレンツなものです。強い依存感情がありながら、それを否認する強い超自我が、直子のこころの奥深くでは働いています。王子様に救われたい願望もありながら、ハエに食われてしまうというタナトス的欲動も働いています。この分裂感が、直子の解離性障害の原因でしょう。病気が快方に向かい、いよいよ退院という時に自殺をしてしまう--その人生のすべてが、直子の詩「めくらやなぎと、眠る女」には凝縮され、予言されているように思えます。

いとこの難聴の原因も、直子の精神疾患と同じようなところにあるのかもしれません。確かにこのいとこの母親は、やや神経症的なところがあり、その影響でいとこは心気症の疑いがあるように思えます。(アパッチの話に、そのことが表れています)。また、「僕」は、このような精神疾患を持ったクライエントとの共感をする傾向が強いとも言えます。「僕」つまり村上春樹さんが、こころのもっとも深いところでのアンガージュマンを模索し、「デタッチメントからコミットメントへ」を目指そうとしているのは、この「共感をする力」に基づいているのかもしれません。オウム信者にも、またサカキバラ少年にも共感ができるからこそ、はじめて震災被害者にも「同情」ではなく、「共感」ができるのでしょう。私にはそう思えます。

(「めくらやなぎと、眠る女」は、文庫版の短編集「レキシントンの幽霊」に所蔵されています。なお、ちなみに、「めくらやなぎ」という木は実在しません。これもムラカミワールドならではのトリックです)

 

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