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ユダは問う

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2012/12/24
らくらくカウンセリングオフィスをご利用いただいている皆様、平成24年度は大変お世話になりました。平成25年度も、引き続きご愛顧賜りますようお願い申し上げます。(当社役員・脇田耕二)
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クリスマスが近づくと私はいつも、バッハの受難曲を聴きます。別に私はキリスト教徒ではありませんが、この曲のドラマチックな構成は「1年の総決算」を振り返るのにふさわしいという気がして、ここ数年続けている習慣です。しかし今年はちょっと目先を変えて、受難曲ではなく、アンドリュー・ロイド=ウェバーの「ジーザス・クライスト・スーパースター」を聞いてみることにしました。秋にオリジナルアルバムのリマスター版が発売され、これがなかなか良かったので、映画版やリバイバルキャスト版と聴き比べながら現代版のキリスト受難劇に思いを巡らせるクリスマスでした。

「ジーザス」は映画版が最もよく知られています。1973年に日本で上映されたとき、私は中学生でした。それまでに見てきた映画とは全く違う独特な演出と、「一人の人間としてのキリスト像」に魅かれ、何度も映画館に足を運んだことを覚えています。同じ頃、劇団四季による日本語版も上演されたようで、鹿賀丈史がキリスト役でデビューしています。このように、この作品は’60~70年代の時代の象徴として当時の若者に支持され、全世界的なヒット作となりました。


映画版ができる数年前、この作品はブロードウェイで1969年に上演されています。実はこの舞台上演に先立って、サウンドトラック盤がスタジオ録音され、レコードとして売られていました。この時、イエス役を歌ったのが、当時ディープ・パープルのボーカリストだったイアン・ギランです。リマスター版では、当時のギランの清々しい歌唱を聴くことができます。特に、イエスが歌う「ゲッセマネの園」の高音のシャウトは、ギランならではのものがあり、映画版のテッド・ニーリーに勝るとも劣らない迫力があります。また、映画版でピラトを演じたデネンや、マグダラのマリア役のイボンヌ・エリマンもこのレコードで同じ役を歌っており、さわやかな歌唱を聞かせています。


「ジーザス・クライスト・スーパースター」という作品に描かれているキリスト像は、信者が観ればばすぐに気がつく通り、正式な福音書の記述とはかなり異なっています。特に、「神の子=イエス」ではなく「人間=イエス」という描き方がされているのが大きな特徴です。この点が、敬虔なキリスト教徒にとっては許し難いものがあるようで、上演当時は抗議のデモや、映画館の爆破テロなどが行われました。この作品が、上演当時の高い評価にもかかわらず、その後の再演が少ないのも、このような事情によるものでしょう。しかし、音楽的にはきわめてよくできていて、さすがにロイド=ウェバーの天才をうかがわせます。特に、変拍子(7拍子)と転調の扱いに彼ならではのものがあります。また、エレキギターやシンセサイザー(当時としては画期的に新しい楽器)の使い方も極めて効果的です。後にロイド=ウェバーは、この技法を「スターライト・エキスプレス」や「エビータ」に使用して成功を収めています。


「ひとりの人間としてのイエス」という考え方は、キリスト教文化が育んできたものではありません。それは、ベトナム戦争後のヒッピームーブメントの中で醸成された思想です。アメリカが初めて“敗北”を喫した戦争つまりベトナム戦争をきっかけに、戦争体験者の間で「神とは何か」という問いが改めて問われることになります。そのムーヴメントの中で、一人の人間としてキリストを捉えようとする試みがなされ、それらを集大成してミュージカルの味付けを施したのが、「ジーザス・クライスト・スーパースター」です。


「ジーザス」が福音書と大きく異なる点はもう一つあります。それは、「復活」が描かれていないという点です。舞台/映画版では、キリストの磔刑が最後のシーンで、3本の十字架をシルエットにして幕が下ります。もっとも、映画版では、エンディングの音楽に合わせて登場人物がロケバスに乗って帰路につくシーンがあり、このシーンにキリストが登場しないことによって間接的に「復活」を象徴させていますが、これはジュイソン監督独自の解釈・演出であり、オリジナルの台本には書かれていません。むしろ、復活しないことによってイエスの人間性を際立たせているのが、オリジナル版の特徴です。


もう一つ、「ジーザス」がヒッピームーブメントの賜物であるがゆえに際立っている特徴があります。それは、登場人物のセリフ(歌)の中に何度も登場するさまざまな「問い」です。


「ジーザス」の登場人物は、さまざまな「問い」を投げかけます。そのほとんどはキリストに対して向けられた「問い」です。特に、舞台/映画版の後半、つまり「ゲッセマネの園」以降のシーンでは、登場人物は何度もキリストに「問い」を投げかけます。例えば、逮捕されたキリストと対面するシーンで総督ピラトは、「お前は何者だ?」「ユダヤの王と言われているそうだが本当か?」と問いかけます。これに対してのキリストの答えは、有名な次のセリフです--「それはあなた言葉だ。私の言葉ではない」。この答えに対し、ピラトはこう言います--「それは答えになっていない」と。つまり、後半で繰り返されるさまざまな問いには、「答え」が示されることはないのです。


キリストの捕縛後に「3度の否認」を行なうペテロもまた、マグダラのマリアとともにイエスに問いかけます。「Could we start again please? (もう一度やり直せないでしょうか?)」と。この2人の二重唱は、映画版では観客に向かって問いかけられ、観客にも答えを考えさせようとします。しかしもちろん、この「問い」にキリストから答えが示されることはありません。


極め付きは、ユダによる「問い」です。自らの裏切りの罪深さに気付いたユダが縊死した後、舞台/映画版で彼は亡霊(彷徨える魂)となって現れ、有名な「Jesus Christ Superstar」を歌います。この曲の歌詞は、「質問」の連続です。「Who are you? What have you sacrificed? (あなたは誰、何を犠牲にしてきたの?」、「Don't get me wrong. I only want to know. (悪く思わないでくれ、俺はただ知りたいだけなんだ)」。つまり、ユダはここで、問いへの答えを「知る」ことを欲望しているわけです。


もちろん、先ほど述べたとおり、ここで繰り返される「問い」は福音書に由来するものではなく、ヒッピー文化が発した問いです。ベトナムの悲惨さを前に、戦争神経症に病んだ若者たちが問うた「問い」です。自らが信仰するキリストの教えに対し、その信仰心が揺らいだ時に発せられた根源的な「問い」。つまり彼らの存在のすべてを賭けた「実存的問い」なのです。


このような「問い」が発せられる場面に、私たちカウンセラーは常に直面します。セッションを続けていくに従い、クライエントはこのような根源的・始原的な問いをカウンセラーに対して投げかけます。その時カウンセラーは彼らに「解釈」を与えたり、「感情の明確化」や「直面化」を行なって介入を図るでしょう。しかし映画/舞台の「ジーザス」においては、ピラトの問いにも、またペテロやユダの問いにも、答えは示されません。ピラトにはトートロジーが(あるいは禅問答のような“答えにならない答え”が)返され、ユダに対しては沈黙が与えられるだけです。


実は、「ジーザス」の中では、もう一人「問い」を発する人物がいます。それは、他ならぬキリスト自身です。キリストは、神に対してこう問います。「I want to know, why I should die.(私は知りたい。なぜ私は死なねばならないのか)」。この問いに対して神は、「お前は死ぬ運命なのだ」という真実を執拗に繰り返すだけです。映画ではそのことは、聖画に描かれたキリストの磔刑という形で示されます。つまり、「死」だけが、示しうる最後の、そして唯一の、「答え」なのです。


このような「死」を、フロイトは、「ものそれ自体」の有り様として記述しています。私たちが身の回りの世界に対して投影しているすべての幻想を取り払った時、そこに現れるのは、「死」だけが支配する冷酷な「もの」の世界です。カントは、そのような世界を「ものそれ自体」と呼びました。このような「もの」との出会いが、精神分析過程の最後に現れてくると言われています。これと同じような経験が、映画/舞台版「ジーザス」における「問い」の背後には、ひっそりと、しかし確かな手ごたえをもって描かれているのです。


ある意味で、このような「問い」を問うことができるのは、ピラトやユダが神経症者であるからだとも言えます。キリストへの同一化と転移の中で、彼らはこの問いを発しています。ユダが強い転移を表していることは、彼の裏切り行為がタナトス欲動に裏打ちされたアクティングアウトであることからも明らかです。ピラトの転移も、彼が見る夢の中にイエスが現れてきていることに窺えます。福音書にもある有名な「ピラトの夢」は、いわゆる“予知夢”ではなく、このような転移の一環として考えた方が理解しやすいでしょう。フロイトの「夢判断」に登場する「子どもが焼かれる夢」について、精神分析家のジャック・ラカンはこの夢を「願望の充足」ではなく、子供の「死」という動かしがたい真実に出会ったことに由来する強迫的な反復であると言っています。それはちょうど、ベトナム戦争で病んだ戦争神経症者や、現代のさまざまな災厄に苦しむPTSD患者が経験するそれと同じです。同じ症状を、ピラトやユダも抱いていたというのが、映画/舞台版「ジーザス」の解釈です。


最後に、今まで述べてきたような「問い」を発しない人物がいることも指摘しておきましょう。たとえば、キリストを死刑に追い込む司祭たちやヘロデ王、そして「群集たち」です。司祭やヘロデ王は最初から一貫して“悪役”を担わされているので、「問い」を発しないのは当然ですが、物語の前半であれほどキリストを賛美していた群集(ユダヤの民)が、キリストの逮捕後、手の平を返したようにキリストを非難するのはなぜでしょう。この点も、映画/舞台版が福音書と大きく異なる点の一つです。ということは、ここにも同様に、’60年代の若者が体験した違和感が表現されているのです。


精神分析学の応用分野である群集心理学では、このような心理は、「自我理想の対象への投影とそれへの同一化」→「惚れ込み投影の引き戻し」→「タナトス欲動による反動形成」と記述されます。つまり、ユダヤの民を解放してくれる「メシア」だと信じ込んでいたキリストが、ただの一人の人間だということが分かり、裏切られて幻滅し、逆に反感が大きくなった結果だということです。戦後に生まれた’60~70年代の若者が、ベトナム戦争や学生運動などを通じて体験した幻滅感が、この群集像に表現されているのです。


「問い」を発しないままイエスに石を投げる群集。彼らを指しながらキリストが神に依託する言葉が、有名な「彼らを許したまえ。自らの為すところを知らざればなり」です。「知ろう」と欲望するユダ、そして「知ろうともしない」ユダヤの民。そしてその両者を許そうとする超自我的立場を象徴するキリスト。これら3者のドラマを描き出しているという点では、「ジーザス・クライスト・スーパースター」はバッハの受難曲よりはむしろ、「エディプス王」のギリシャ悲劇に近いのかもしれません。

 

 

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