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「木村敏」の読み方

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2014/01/31
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精神科医の木村敏先生は、すでに80歳を過ぎた高齢にもかかわらず、今でも変わらぬその特異な観点で、注目すべき論文をいくつも発表していらっしゃいます。木村先生の臨床医学は、別名「臨床哲学」とも呼ばれており、特に近年では、臨床医だけでなく、若い哲学者からも注目されています。なぜなら「木村臨床哲学」には、新しい人間観を反映した視点が貫かれているからです。

木村敏が論文を発表するようになったのは1960年代後半からで、特に70年代から80年代にかけては主要な論文のほとんどが書かれています。しかし当時は木村敏を理解する人はきわめて少なく、ごく一部のドイツ系の精神医学をおさめた臨床医と、ごく一部のハイデガー派の哲学者にしかその名は知られていませんでした。というのも、木村臨床哲学を理解するには、精神医学の知識だけでなく、ハイデガーやフッサールの現象学の知識が欠かせないからです。

さて、時代を第二次大戦後のドイツに移しましょう。当時のドイツにおいて、精神医学界は大きな混迷の時代を迎えていました。戦前のドイツ精神医学を支えていたのはもちろんフロイトの精神分析学であり、ナチに追われてフロイトが西欧に亡命した後、ユダヤ系の弟子たちも相次いでイギリスやアメリカへ移ってしまい、ドイツには何も残されてない状態でした。(ちなみに、ユングがチューリヒに戻ったのはそれよりもかなり前のことですし、そもそも破門されたユングに着目するドイツ人はいなかったでしょう)。フロイトを失ったドイツの精神科医は、新たな理論的支柱としてハイデガーの存在論哲学に活路を見出そうとしました。ビンスワンガーやブランデンブルクといった精神科医はハイデガーを病院に招いてその哲学的人間学を学び、新しい「現象学的精神医学」を作ろうとしたのです。ハイデガーと同時代人であったカール・ヤスパースの実存哲学も、その完成に一役買いました。こうしてドイツの精神医学会は、「現象学的に患者を診る」という視点とその方法を確立し、精神医学界に大きな波紋をもたらしたのです。

木村先生は、このドイツ精神医学を学んで帰国した数少ない先人の一人です。60年代に木村先生が日本に戻ってきた時、日本ではやはり、欧米と同様に精神分析学が流行していたようです。また一方では、新しい技法としてアメリカからさまざまな心理療法が輸入されつつあった時代でもありました。ロジャーズのカウンセリングが導入されたのもこの頃です。そのような中にあって木村先生は、ひとり、現象学的精神医学をとことんまで突きつめようととしたのです。

木村臨床哲学の本は、ここ数年の間に次々と文庫化されています。ちくま文庫から出ている「あいだ」と「自分ということ」の2冊は読みやすく、薄いのでお勧めです。木村哲学の詳細はそれらを読んでいただくとして、ここでは、木村臨床哲学を理解するうえでのポイントをお話しします。

ドイツの精神医学と木村哲学が基盤に置いている「現象学」とは、「明証性」を何よりも重要視する哲学です。一般常識とか、科学的成果とか、歴史的知識などはできるだけ排し、自分が「これだけは確かで間違いがない」と思えるものだけを根拠にして物事を考えるのが現象学の方法論です。精神科医・木村敏が患者と向き合うときも、そのような態度で接しました。例えば分裂病の患者を診るときも、「エディプスコンプレックス」とか「対象関係」といった仮説的モデルをもちだすのではなく、ただ単に、患者と木村自身との間で起こっている事態(現象)を根拠に物事を考えていきます。その結果として木村は、「あいだ」とか「歴史性」とか「ノエシス的」とか「ポスト・フェストゥム」といった新たな概念を提出します。この「現象学的観点」、これがまず第一の「木村理解へのポイント」です。

もう一つのポイントは、西田幾多郎の哲学ですが、これはこれで説明するのも理解するのも極めて困難な哲学です。興味のある方は「善の研究」とか「生命と場所」といった西田の著作を読むのもよいでしょうが、代わりに、「禅」を勉強するのも手っ取り早いかもしれません。禅ではよく、相矛盾したことを「問答」として問いかけます。例えば、「両手を叩くとポンと音がする。これは右手の音か、それとも左手の音か」といった問いです。このような矛盾した問いへの西田の答えは、「人間とは絶対矛盾の自己同一である」というものです。つまり、絶対に相容れない矛盾が「自己」において共存しているという考え方ですが、この考え方は、ハイデガーの「存在と存在者との間にある“存在論的差異”」という考え方と軌を一にしています。ハイデガーから木村哲学に入るか、それとも西田から入るか、あるいは禅から入るか、いずれの道からでもアクセス可能ですが、この道は難しそうに見えても分かってしまうと何ということもないほど単純な道です。というよりもむしろ、分裂病者は、このような絶対矛盾をまさに自分自身で生きているわけですから、彼らと接することはこの道に入る最短の“近道”、いやむしろ最短の“王道”かもしれません。

今から遡ること30数年ほど前、私が通っていた会社に分裂病の方がいました。仮に「A君」と名付けましょう。A君は、ちょうど青年期の、つまり分裂病を発症する年代で、普段は聡明な記憶力のいい人でしたが、時々やはり意味不明なことを言い出したり、一人でくすくす笑ったりする症状は、今から思えば分裂病特有のものでした。A君が内的に体験していた事柄、そして私が彼に接した時に感じた一種独特な違和感、それらはおそらく木村先生が日々患者と接していて体験している事態なのでしょう。

現象学は「明証性」を基盤に置く哲学です。「明証性」とは、「誰にとっても明らかだ」という意味です。とするならば、木村敏によって現象学的に見出された事柄は、誰でもが明証的に理解することができる事柄だということでもあります。精神分析学が仮説だけに基づいた理論であり、専門の勉強と教育分析を受けた人しか理解できないのと違い、「明証性」が臨床哲学の原理である以上、そこには普遍性の高さと理解し易さがあります。そのことは木村敏の論文を読んでみれば、誰でも納得できるでしょう。もっとも、木村臨床哲学は精神分析家から言わせると「遅れた理論」に見えるかもしれません。対象関係論が、幼児期の「良き対象/悪しき対象」との葛藤として理論づけているものを、現象学的臨床哲学は、「あいだ」とか「歴史性」といった漠然とした呼び方でしか語り得ないからです。しかし実は、分裂病の病状を「悪しき対象」と呼ぶという態度と、「あいだの病だ」と呼ぶ態度との間には、存在論的差異があります。つまりその両者は、理論が成立しているフェーズ自体が違うのです。

近年の日本の若い哲学者が木村敏に注目しているのも、このフェーズの違いにあります。ハイデガーが晩年、「形而上学」と呼ばれる高度な抽象的思考に埋没してしまい、現実的な「生活世界」から乖離してしまったのと違い、木村敏は、「患者」という名の現実にしっかり足をつけて哲学しています。そこには、ハイデガーと西田幾多郎と禅とを統一的に語りえる観点があります。その観点は、ハイデガーが見出した存在論的差異を現実の人間や社会に見出しえる可能性を持っています。それは「創造性」とか「創発性」とか「発生論的」と呼ばれている観点で、21世紀の新しい人間哲学を切り開くと期待されています。喜寿を過ぎた精神科医の思索が、今最も新しい思惟なのです。

というわけで、カウンセラーはぜひ木村敏先生の「あいだ」を読んでみてください。「難しくて読めない」ということは決してありません。なぜなら難しい哲学用語や精神医学用語はほとんど出てこないからです。文章は私たちが普段使っている「普通の言葉」で書かれています。(その点は、ハイデガーの「存在と時間」と同じです)。しかし読み終わった後に、「う~ん、でも分かったような分からないような」感が残るでしょう。私も最初はそうでした。でも、ある時ふと、木村哲学とフロイト精神分析との間にある「存在論的差異」に気付く時があります。その時、あなたは分裂病者のことが少し分かるようになるはずです。私がA君のことを少し分かることができたのと同じように。

 

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