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タブラ・ラサ

㈱らくらくカウンセリングオフィス 2011/06/25
らくらくカウンセリングオフィスは、行動心理学に基づいたエビデンス・ベイストなカウンセリングを行なっています。

当社役員の脇田です。

17世紀のイギリスで、哲学者ジョン・ロックが、体験や経験から学ぶことの大切さを自らの思想の根幹に据え、「経験主義哲学」を打ち立てたことはよく知られています。ロックは、生れたばかりの人間は、何の知識も情報も能力も持たないタブラ・ラサ(白紙)の状態であり、成長の過程でいろいろなことを「学習」し、ひとりの個体として成熟すると考えました。この「経験主義」が、現代の科学のものの考え方の根幹であり、教育や、学習心理学の根本原理でもあります。もちろん、現代の心理学では、生得的な能力や知力といったものも想定されており、全くの「白紙」として生まれるわけではないとされていますが、では「無意識」は果たして学習されたものなのかそれとも生得的なものなのかは、議論の分かれるところです。

こんなことは心理学を学び始めた方には自明の理なので、これ以上はあまり説明はしませんが、では、次のような問いを立てた場合、どのような回答が可能でしょうか? 「人工的に造られたクローン人間は、タブララサ(白紙の人間)として生まれるのか、それとも生得的な何かを持って生まれるのか?」

数ヶ月前に封切られた映画「わたしを離さないで」は、このような問いを主題として扱った作品です。カズオ・イシグロの原作は何度も書評などに取り上げられ、私もつい最近ようやく読んだのですが、確かに名作です。多くの名作と呼ばれる文学作品がそうであるように、この著作も多様な読み方が可能で、多くの評論家は、「バイオテクノロジーへの警鐘だ」とか、「人間のエゴへの痛烈な批判だ」といった読み方をしているようです。しかしこの作品に、「タブララサとしての人間」という視点から焦点を当てた時、また違った読み方が可能となります。

「ヒストリカル・イフ」と呼ばれるSF小説の分野があります。「もし歴史上のあの事件が違う結果だったら、現在は違う世界になっていたかもしれない」という想定のもと、バーチャルな現在を描こうとしたSFで、有名なのは、P.K.ディックの「高い城の男」でしょう。この作品では、「第2次世界大戦で連合国側が敗れ、同盟国(ドイツ・日本・イタリア)側が勝っていたらどういう世の中になっていたか」が描かれます。(ちなみに、この小説では日本軍が導入した「易」で未来が占われるという設定になっていて、それはそれでユング心理学的にも興味のある設定です)

「わたしを離さないで」で描かれる「ヒストリカル・イフ」は、「第2次世界大戦後に冷戦が起こらず、原子力爆弾や原発の開発の代わりバイオテクノロジーの研究に科学者が総動員され、その結果、ガンなどの不治の病を治すために移植ドナーとしてクローン人間が造りだされていたらどうなっていたか」という設定です。この設定自体、今までのSFにはなかったものです。もちろん、クローン人間が登場するSFは数多いですが、ヒストリカル・イフとしてクローンを登場させたケースは聞いたことがありません。

もちろん、イシグロは「純文学」の作家ですので、SF小説として「わたしを離さないで」を書いているわけではありません。従って、SF小説によくあるような、クローン人間の反乱とか、クローン人間と人類(生殖機能を備えた人間)との対決とかが描かれるわけでは全くありません。この小説に描かれるのは、純粋に「人間とは何か」という文学ならではのテーマに他なりません。ストーリーは淡々と進み、一人称で書かれているため、多くの勘違いや思い込みや個人的感想に惑わされて、何が事実(外的世界)で何が本人の感情(内的世界)なのかがよく分からないように構成されています。逆に言うと、そのため、この小説には多様な読み方が可能になっているのであり、読者が自分なりの解釈で作品を掘り下げて深読みする余地が残されているわけです。

主要な登場人物は3人のクローンで、男性1人女性2人の「三つ巴」でストーリーは進展します。このストーリー展開自体も、イシグロならではの綿密な構成と伏線の張り方の巧妙さで十分に読ませますが、しかしそれだけは「日の名残り」などの今までのイシグロ作品と変わりません。「離さないで」の秀逸なところは、「ヒストリカル・イフ」の体裁をとることによって、別の角度から「人間とは何か」という問いを投げかけている点です。それによって多様な解釈が可能になっているわけです。

クローンである3人は、全くのタブラ・ラサとして生まれてきます。そして「ヘールシャム」という寄宿舎のような学校で教育を受けて18歳までを過ごします。物語の前半は、この学生時代の思い出ですが、ここで大切なのは、タブラ・ラサであった生徒たちが、教育をうけることによって、さまざまな個性を開花させるという点です。特に、この学校は生徒に絵画や詩作を奨励し、コンテストまで開いて芸術的才能を伸ばそうとします。その辺の理由や、教育内容への3者3様の対応などは本書を読んでください。大切なのは、ヘールシャムの教育方針が功を奏し、生徒たちが「クローン=タブラ・ラサ」から「人間」へと変貌を遂げていくという点です。まさに、英国経験主義の伝統は、ここにも生かされていて、良き教育を受けたクローンたちは、「魂(たましい)」を持った「人間」へと成長していくわけです。

ところで、では3人のクローンの「無意識」はどのように描かれているでしょう。残念ながら、この点は不明のままです。家族療法的な意味での「親」が存在せず、(もちろん細胞の提供者としての「遺伝子の親」は存在するのでしょうが)、エディプスコンプレックスも母元型も持たないクローンたちなので、そのような意味での「親と子の苦悩」は、いっさい描かれていません。むしろそれが描かれていないことによって、親から「離され」てしまっているクローンたちの悲哀を逆説的に表現しているとも言えるでしょう。エディプスコンプレックスがない分、クローンたちには、「人間になりたい」というまるで「妖怪人間ベム」のような哀れさが、終始、色濃く漂っています。

しかし1点だけ指摘するならば、トミーの描く「複数の動物を組み合わせたような小さな空想生物の細密画」に、何らかの無意識世界の投影を見出だすことはできるかもしれません。トミーは、ある必要性に迫られてこの絵を描くのですが、物語の後半で、その必要性がなくなった後でも、執拗に細密画を描こうとします。この細密画のシーンは、小説の主題とは直接の関係がないため、トミーの死後に細密画がどうなったかは書かれていませんが、「絵画には無意識が投影される」というユングの理論になじんでいる私としては、この空想生物の有り様が、大いに気になるところです。

そうそう、3月に封切られた映画の方は、封切りがちょうど今回の大震災と重なったため、興行的には失敗だったようです。私も映画館で観そこなったのですが、DVDが出たら是非見たいと思います。絶対に泣ける作品です。だって小説を読んでいるだけで目頭が熱くなるくらいですからね!(読者が、単なる人造人であるクローンに感情移入できるように書かれているのが、イシグロの文才のすごいところです。ああ、そうそう、ロボットに感情移入させようとして作られた映画「A.I.」の押しつけがましさだけは、この「離さないで」にはありません)

ではまた。

 

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